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平和の扉を開ける奇跡 ・ 広島の子供たちの絵と書

なぜ私はドキュメント映画 「ヒロシマの校庭から届いたの絵」 を制作するのか

重籐・マナーレ・静美 (プロデューサー)

 

毎年8月にワシントンで開かれるワシントンDCでの米日・広島と長崎の被爆地−慰霊祭平和会議。その会議に出席された日本被団協会の代表者が、2006年の夏、我が家にホームステイとして滞在されました。佐藤義男さん(75歳)、児玉正太郎さん(76歳)、吉村和博さん(65歳)で、どの方も被爆者です。私と主人アンディは彼らの話に耳を傾け、被爆者として核廃絶と平和への希求に感銘を受けました。

そのことを知ったオール・ソウルズ・ユニテリアン教会から、59年前、広島の子供たちから贈られた絵を保管しているので、被爆者の方に是非見て欲しいと招待があり、彼らを教会へご案内しました。

教会の図書館に保管されていたのは、1947年に画かれた広島市本川小学校の子供たちの絵と書48点です。紙箱から丁寧に取り出される作品は、59年の歳月に多少痛んでいるとはいえ、子供らしい躍動感と楽しさはそのまま保存されていました。

それらの作品は生き生きとして甦って、私たちの胸に迫ってきました。誰もが言葉にならない感動の声をあげていました。現在、東京にお住まいの佐藤さんは、被爆に遭う前の美しい景色や街並みが絵に描かれているのを見て、まるで故郷に出会ったかのように、色々と絵の中のことをそれは懐かしそうに説明してくださいました。

その時に思ったのです。確かこの絵は1947年の作品。この年にすでに広島市の桜の木は花を咲かしていたのだろうか? 街並みはこんなに美しかったのだろうか? 遊園地はあったのだろうか? そんなはずはない。1947年当時の本川小学校の風景写真を見ても、学校にはドアも窓ガラスもなかった・・・。 まだ焼け野原に近い状態だったはずだ・・・。 とするとこの1947年度の子供たちの絵は、彼らの希望と夢なのではないかということに気がついたのです。

児玉さんはこの素晴らしい発見に溜め息をつき目を輝かしながら絵や書を見入っては感心するばかり。 吉村さんは無我夢中になってその子供達の絵の写真を撮ってらっしゃいました。 私は命の宝物に出あったような喜びと感動、そして日本人として誇り高い思いで子供達の作品を観賞しておりました。

日本人ですから私たちは容易にこの作品を理解することができます。さらに原爆被災国として感情移入できます。しかしそれを超えてこれらの作品は、普遍的な意味を持って私たちに訴えています。

1947年といえば原爆投下から2年目、当時アメリカの占領下において情報は統制され、国民は原爆の被害の実態を正確に知らなかった時代です。当時、原子爆弾が投下された広島は、今後100年間は草木も生えないと、根も葉もないデマが全国に広まっていた時代です。

もちろん広島は焼け野原状態にあり、窓も扉も無いあばらの学校で、子供たちはこの絵や書を描いたのです。恐らく子供たちは放射線をあびた影響について、正確に知らなかったことでしょう。その後の子供たちの人生に思いをめぐらせたとき、この作品群は別の意味で私の胸を打ちました。

彼らはこの絵と描いた背景を覚えているだろうか? 国境を越えて結ばれた友愛と感謝の気持ちを今尚覚えているだろうか? そしてこの作品群を受け取った人々はどんな気持ちで受け取ったのだろうか?

そしてこの作品が日本からこの教会へもたれされた経緯を教えられて、さらに感銘を受け、この作品群を世に知らせるのが自分の義務だと強く思ったのです。

それと同時に、ジグソーパズルの最後の一片がぴたりとはまった時のように、偶然とはいえこの場面に私がいることに、何かしら計り知れない運命の力が、私をここに導いているのだと感じて、不思議な命のつながりを見つけた様な気持ちでおりました。

 

動機

この子ども達の絵の作品群が生まれきっかけは1946年、ワシントンDCにある170年の歴史あるオール・ソウルズ・ユニテリアン教会の宣教師・デビット・パウエル博士がニューヨーク・タイムズ紙の記事を見たことから始まりました。

その記事はビキニ島での原爆(水爆)核実験の成功を祝う記事で、あろうことか軍と政府関係者が原子爆弾投下で出現した「きのこ雲」をケーキにして祝っている写真でした。それを見たパウエル博士は憤慨し、直ちに政府に抗議書を送り、原子爆弾の惨状を新聞のコラムで訴えたのでした。

このコラムを読んだ当時マッカサー元帥政府下の教育委員長であったハワード・ベル氏は、パウエル博士に共鳴し、広島の子供たちへ救援の手を差し伸べることを提案したのでした。

この提案を受けて、パウエル博士とユニテリアン教会の市民メンバーが協力して寄付を募り、原爆被災地の子供たちへ援助の手を差し伸べたのでした。

1947年の初めに広島市立本川小学校、袋町小学校、そのほか似の島孤児院に机や椅子、学校教材、運動用具等を、一年間にわたってプレゼントしたのでした。

子供たちがどんなに喜んだことでしょう。

袋町小学校と似の島孤児院の子供たちはお礼の手紙を書き、本川小学校の子供たちは感謝の気持ちを絵や書にしてユニテリアン教会へ送ったのでした。75通の手紙は残念ながら紛失したようですが、48点の絵と書は59年間の眠りから覚めて、私たちの目の前に姿を現したのでした。それは平和への希望と友情精神の象徴としてよみがえったのでした。

 

私事ですが、実は私も広島に浅からぬ縁に結ばれています。両親は広島出身で、私は広島で生まれ大阪で育ちましたが、15歳まで毎年のように夏休みには広島の祖母の元で過ごしました。広島の原爆被災については学ぶというより、常日頃の話題のなかで常識として受け入れていました。舞踊舞台芸術家としてひとり立ちしてからも「ヒロシマ」は意識しており、「ヒロシマ」の主題による詩の朗読会などにも積極的に参加し、現代創作舞踊のパーフォーマンスを演じてきました。また、私の舞踊作品は「ひろしま」への思いが常に反映されています。

母は戦争中そしてその後にも、三次の八幡小学校で教師をしていました。そして広島市から子供25名がその学校に疎開していたそうです。ところが1945年8月5日、その子供たちは、夏休み前の最後の授業と里帰りのために広島市の小学校へ戻って行きましたが、再び八幡小学校へ帰ってくることはありませんでした。母はかわいそうなことをしたと、いまだに気にしていています。

振り返ってみると、私は「ヒロシマ」といつも向き合ってきたような気が致します。

2006年の被爆者の方との出会いからユニテリアン教会へ導かれ、今こうして63年前の広島の被爆地で育った子供たちの鮮やかに描かれた絵に、彼らの希望と夢を私は発見したのです。 

玉手箱の中から出てきた宝のような彼らの描いた絵の、見事に子供らしい元気な明るい表現に心を揺さぶられた私は、先ず絵画の修復作業運動を始めました。 また、2007年の春には本格的に「希望の種」プロジェクトとしてドキュメンタリー映画の制作にとりかかったのです。 その年の12月には、傷みの激しかった絵や書の修復完成。この絵画の修復が完成した知らせを聞いた私は、まるで自分の子どもが長い病から奇跡的に快復したような喜びと同様の感激で胸をつまらせました。

戦後64年。第二次大戦の教訓から、人類は国際紛争を平和的に解決するため、国際連合を組織し、世界平和を目指してきましたが、現在、世界平和はますます遠のいているように見えます。

このような風化の進む中、このドキュメント映画「ヒロシマの校庭から届いた絵」を通して、日米の、そして世界の現在の子ども達に、人間の友情、平和を祈る心ついて伝え、平和の大切さを考える場にしたいと願っています。

この絵と書、そしてそれに関わる歴史的な心温まる話しを是非、世界に知らせ、失われつつある世界平和の希求と友愛精神を再び甦らせたいと。 

広島出身の自分が、この絵の里帰り展示会や記録映画に関わるのは、何かのめぐり合わせだと思っている今日です。

Copyright (C) 2012 PICTURES FROM A HIROSHIMA SCHOOLYARD.